鎌倉遺文 自延慶元年至延慶四年(131 古文書編 - 竹内理三

古文書編 竹内理三 鎌倉遺文

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鎌倉時代の古文書を網羅し、編年式に集大成した中世史研究の根本史料。本巻は建久3年から正治3年までの文書を収めた。 ※この商品は紙の書籍のページを画像にした電子書籍です。文字だけを拡大することはできませんので、予めご了承ください。試し読みファイルにより、ご購入前にお. 鎌倉遺文 古文書編全42冊、古文書編補遺全4冊、索引編全5冊、鎌倉遺文無年号文書目録(瀬野精一郎編) ¥ 200,000 竹内理三編 、東京堂出版 、昭46-平7 、全52冊. さて、クビライ・カアンはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵をつけて派遣した。将軍の一人はアバタン(アラカン(阿剌罕))、もう一人はジョンサインチン(ファン・ウェン・フー、范文虎)といい、二人とも賢く勇敢であった。彼らはサルコン(泉州)とキンセー(杭州)の港から大洋に乗り出し、長い航海の末にこの島に至った。上陸するとすぐに平野と村落を占領したが、城や町は奪うことができなかった。さて、そこで不幸が彼らを襲う。凄まじい北風が吹いてこの島を荒らし回ったのである。島にはほとんど港というものがなく、風は極めて強かったので、大カアンの船団はひとたまりもなかった。彼らはこのまま留まれば船がすべて失われてしまうと考え、島を離れた。しかし、少しばかり戻ったところに小島(鷹島)があり、船団はいやおうもなくこの小島にぶつかって破壊されてしまった。軍隊の大部分は滅び、わずかに3万人ほどが生き残ってこの小島に難を避けた。彼らには食糧も援軍もなく、もはや命はないものと諦めざるをえなかった。というのも、何艘かの船がいちはやく彼らの国に帰ったのだが、いっこうに戻って来る気配がなかったからである。実は司令官である二人の将軍が互いに憎み合い、そねみ合っていたのである。一人の将軍は嵐を逃れたのだが、小島に残された同僚の将軍の救援には赴こうとしなかった。大風は長く続かなかったので、吹き止んでしまえば戻ることは十分可能だったにもかかわらず、彼は戻ろうとせず、自分の国に帰ってしまった。大カアンの軍隊が残されたこの小島には人の住めるようなところではなく、彼ら以外に生き物の姿はなかった。さて、逃げ帰った者たちと小島に残された者たちがどうなったか、次にお話してみよう。 さて、すでに申し上げたように、小島に残された3万の兵士たちはどのようにして脱出してよいかわからず、もはや命はないものと諦めざるをえなかった。ジパング(日本)の王は、敵の一部が運命に見放されて小島に残され、他はちりぢりに逃げ去ったと聞くとおおいに喜び、ジパング中の船をこぞって小島に赴くと四方八方から攻め寄せた。タタール人(モンゴル人)たちは、戦いに慣れていないジパングの人々が船に警戒の兵を残. on 28 марта Category: Documents. (竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十三巻 東京堂出版 九五六四号) ^ 村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 年 66頁 ^ 山口修「文永・弘安の役」『図説 日本の歴史6 鎌倉の幕府』集英社、1974年、195頁. 豊前小山田文書 延慶元年12月21日 延慶2年1月20日. 鎌倉時代の古文書を網羅し、編年式に集大成した中世史研究の根本史料。本巻は嘉暦3年から元徳2年までの文書を収めた。 ※この商品は紙の書籍のページを画像にした電子書籍です。文字だけを拡大することはできませんので、予めご了承ください。試し読みファイルにより、ご購入前にお. -- 河出書房新社, 1962.

(永光寺文書) 延慶3年8月28日 93 158 酒井利忠、その所領鹿島郡酒井保内の山野を海野信直の妻に沽却す。(永光寺文書) 延慶3年8月28日 94 延慶4年、応長元年(1311) 159 藤原宗信、珠洲郡法住寺内の林木伐採を禁ず。(法住寺文書) 延慶4年、応長元年12月 94. ヒンドゥ、洪茶丘「皇帝(クビライ)の命令では『江南軍をして、東路軍と必ず6月15日までに壱岐島に合流させよ』とおっしゃった。未だに江南軍は壱岐島に到着していない。我が軍(東路軍)は、先に日本に到着して数戦し、船は腐れ兵糧は尽きた。このような事態に到って、いったいどうしたものだ」 この時、金方慶は黙ったまま反論しなかった。10日余り後、同じような議論が繰り返された時、今度は以下のように反論した。 1. 鎌倉遺文(古文書編)30-自嘉元4年至徳治3年- / 竹内理三編 / 東京堂出版 / 1986 鎌倉遺文(古文書編)31-自延慶元年至延慶4年- / 竹内理三編 / 東京堂出版 / 1986 鎌倉遺文(古文書編)32-自応長元年至正和2年- / 竹内理三編 / 東京堂出版 / 1987. (19)延慶二年四月十一日伏見上皇院宣(高野山文書、鎌三一ー二三六六四)が最初の寄付を示す。 (20)鎌倉時代における公家の処分状において知行国が現われない事実はこのことを示していると言ってよいだろう。. 文永の役で元側が馬を戦場で使用したことは『蒙古襲来絵詞』や『八幡愚童訓』からも窺え、『高麗史』にも高麗南部に日本侵攻に用いる軍馬のための糧抹を配給するアウルク(奥魯)が設置されていることからも、軍馬が文永の役で使用されたことは間違いないが、正確な軍馬の数は不明。 『蒙古襲来絵詞』絵八の麁原に陣を布く元軍の騎乗率は約17%で『八幡愚童訓』でも元軍の左副都元帥・劉復亨と思われる人物の共廻りの記述に「十四五騎うちつれ、徒人七八十人あひ具して. 竹内理三編『鎌倉遺文』古文書. 【最安値 9,350円(税込)】(10/20時点 - 商品価格ナビ)【製品詳細:書名カナ:カマクラ イブン コモンジ(31)|著者名:竹内理三|著者名カナ:タケウチ,リゾウ|発行者:東京堂出版|発行者カナ:トウキヨウドウシユツパン|ページ数:403p|サイズ:22】.

文書 建仁2年11月日 相賀庄四至内向副. 天平の創建後、治承四年(一一八〇)と永禄十年(一五六七)との兵火で伽藍は全焼したが、鎌倉時代初期の再建にあたっては旧基を踏襲したので、『正倉院文書』『七大寺巡礼私記』『東大寺要録』などの古代の文献だけでなく、近世の史料も復原の資料とすることができ、現状と併せ考えて. 30: 1276 〔佐々木頼綱書状〕長命寺常灯用途嶋郷. 生の松原の元寇防塁 福岡市西区生の松原 5. 鎌倉時代の古文書を網羅し、編年式に集大成した中世史研究の根本史料。本巻は暦仁元年から仁治4年までの文書を収めた。 ※この商品は紙の書籍のページを画像にした電子書籍です。文字だけを拡大することはできませんので、予めご了承ください。試し読みファイルにより、ご購入前にお. 29: 1256 〔田地寄進状案〕【篠田】‖篠田郷 十一条十四里卅二坪一反‖桐原郷十二条十七里廿五坪一反: 鎌倉遺文8027 長命寺文書 島郷☆ (蒲生) 建治2. 東路軍は捕えた対馬の島人から、大宰府の西六十里の地点にいた日本軍が東路軍の襲来に備えて移動したという情報を得た。東路軍は移動した日本軍の間隙を衝いて上陸し、一気に大宰府を占領する計画を立てると共に、直接クビライに伺いを立てて、軍事のことは東路軍諸将自らが判断して実行するよう軍事作戦の了承を得た。こうして当初の計画とは異なり、江南軍を待たずに東路軍単独で手薄とされる大宰府西方面からの上陸を開始することに決定した。 対馬・壱岐を占領した東路軍は博多湾に現れ、博多湾岸から北九州へ上陸を行おうとした。しかし日本側はすでに防衛体制を整えて博多湾岸に約20kmにも及ぶ石築地(元寇防塁)を築いており、東路軍は博多湾岸からの上陸を断念した。日本軍の中には伊予の御家人・河野通有など、武勇を示すために石築地を背に陣を張って東路軍を迎え撃った者さえもいた。後に河野通有は「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれ称賛された。 この石築地は、最も頑強な部分で高さ3m、幅2m以上ともされており、日本側が守備する内陸方面からは騎乗しながら駆け上がれるように土を盛っており、元軍側の浜辺方面には乱杭(らんぐい)や逆茂木(さかもぎ)などの上陸妨害物を設置していた。『予章記』によれば、海上から見た博多湾は「危峰の江に臨むが如し」外観であったという。 1. 姪浜の元寇防塁 福岡市西区小戸 7.

【tsutaya オンラインショッピング】鎌倉遺文 自延慶元年(1308)至延慶四年(131 古文書編/竹内理三 tポイントが使える. 函少ヤケ・ほこりヨゴレ少・函背脇にコワレ少 小口少ヤケ 内表紙破れ目大 月報欠: 平凡社: 昭14 &92;1,000 : ns-389: 碧巌録大講座 第五巻 (自第二十四則至第三十三則、附録・石頭希遷禅師参同契). 御厨海上合戦で元軍の軍船をほぼ殲滅した日本軍は、次に鷹島に籠る元軍10余万と鷹島に残る元軍の軍船の殲滅を目指した。一方、台風の後、鷹島には元軍の兵士10余万が籠っていたが、諸将が逃亡していたため、管軍百戸の張なる者を指揮官として、張総官と称してその命に従い、木を伐って船を建造して撤退することにした。 1. 3/23/2/ishimoda 貴族政権の構造 / 竹内. See full list on weblio.

3/23/1/ishimoda 貴族政権成立の諸前提 / 竹内理三著. 愛知淑徳大学 図書館. 今宿の元寇防塁 福岡市西区今宿 6. 5cm、重さ2kg 元寇史料館所蔵 4. 146 額安寺文書.

地行の元寇防塁 福岡市中央区地行. モンゴル型馬具(鐙) 高さ14cm、直径13. 承久の乱後、兵庫県三木市久留美庄(興福寺領)の新補地頭となった真真部氏について調べている。 真真部氏は、興福寺文書の延慶元年(1308)「六波羅下知状」の近行名畠を廻る真真部又太郎成正の相論があるが、そのほかの真真部氏の情報を探している。.

「〈愛〉(⑫二八四三)の訓釈について」 国語学懇話会編『国語学論集1』昭53・3笠間書院 『万葉集抜書』昭55・5岩波書店 大野透 「〈愛〉〈愛す〉に就て」 『国語学』126昭56・9 『漢語〈愛〉とその複合語―思想から見た国語史』 昭57・9あぽろん社. 8 - 国立国会図書館デジタルコレクション。 *12: 『分脈』および 蜂屋氏 - Wikipedia より。 *13: 『鎌倉遺文』第37巻28835号。. 6mで短弓である。弓は牛の角と腱と木を組み合わせて作られている。弓全体の芯となっているのは木であり、弓の弦側には圧縮に強い牛の角を加工したものを張り付け、その反対側には伸張に対して強度のある腱を張り付けてある。そして、弓全体を接着力強化のため樹皮で巻き、また湿気予防のために塗料が塗られた。また、弓は弦を外すと反対側に大きく反る形に作られており、矢の速度および飛距離が増すよう工夫されている。矢の先には鏃が付けられ、その形状には各種ある。弓の弦は鹿(アンテロープ)の首の皮で作られ、丈夫にできている。 筑波大学体育科学系教授・森俊男によると和弓と蒙古弓を比較した場合、日本の弓の方が射程距離、威力は優っているとしている。まず、矢の比較だが、和弓と蒙古弓とも矢の長さは80〜90cmとほぼ同じ長さである。しかし、日本の矢は竹製の矢柄を材料として、それを火で焼き、まっすぐに矯めると同. 碧巌録大講座 第四巻 (自第十七則至第二十三則) 加藤咄堂講述. 目次 口絵 序 例言 解説と解題 県内所在文書 岐阜市 1 伊藤郁次郎氏所蔵文書 岐阜市黒野 1 慶長14年10月26日 伊藤庄左衛門・岡部彦右衛門連署加藤貞泰家中 役人名前帳・・・・・・・・・・・・・・・・・1 2 宇野嘉一氏所蔵文書 岐阜市神田町 1 (年未詳)2月20日 日祢野直次書状写. *10: 竹内理三 編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店、1979年)P.

鎌倉遺文 索引編 4 人名・地名自延慶元年至元弘4年: 竹内理三: 東京堂出版: 92/06 &92;8665: さい: 西国武士団関係史料集 2 岐部文書: 芥川竜男: 文献出版: 92/04 &92;4078: のぶ: 信長殺しの黒幕は秀吉か: 八切止夫: 日本シエル出版: 92/02 &92;1470: じゅ: 順徳天皇とその周辺: 芸林. -- (律令制と貴族政権 ; 第1部). 」とあり、騎乗率を約15〜17%ほどとしている。なお、室町時代に日朝が著した日蓮の『立正安国論』の注釈書『安国論私抄』(文明11年、1478年擱筆)第一巻「蒙古詞事」(の「文永十一年蒙古責日本之地事」)には「或記云」として、文永の役での日本軍の捕虜となった元兵の証言によれば、元軍の構成は軍船の総数が240艘で、1艘につき兵300人、水夫70人、軍馬5匹であったとしている。 また、対する日本軍は、陸戦においては騎兵を密集させた集団で戦っていた。そのことは、クビライに仕えた王惲が日本軍の様子を「騎兵は結束す」と記していることや『蒙古襲来絵詞』絵五に騎兵を密集させて突撃する日本軍の様子が描かれていることからも窺える。 なお、両軍が使用した軍馬は、日本在来馬とモンゴルのモウコウマともに体高としては120〜140cmほどであり、体格に差は無かった。 1. 植田 信広 / 鎌倉幕府の裁判における『不論理非』の論理をめぐって《日本古文書学論集6》 / 1987 上野 史朗 / 日本中世寺院法の刑事裁判の研究-とくに落書を中心にして-1・2(法学ジャーナル・関西大・院39,40) / 1984. 5cm、重さ2kg 元寇史料館所蔵.

鎌倉遺文 自延慶元年至延慶四年(131 古文書編 - 竹内理三 『八幡愚童訓』に記されているように、多くの書籍で元軍の集団戦法の前に一騎討ち戦法を用いる日本軍は敗退したと書かれている。しかし、『八幡愚童訓』は後世に記された宗教書であり、八幡神の化身の登場によって元軍を破ったことを強調しており、そのために日本軍が戦闘で一騎討ちなど稚劣な戦闘法で敗北したかのような記述になっているとの見解がある。 一騎討ちに関しては、元寇に参戦した肥後国御家人・竹崎季長が描かせた『蒙古襲来絵詞』絵五に描かれているように、陸戦においては日本の武士たちが騎兵を密集した一団となって集団で戦闘が行われている様子が描かれており、一騎討ちを挑む武士は全く描かれていない。また、文永の役の元軍の博多湾上陸に際しては、日本軍の総大将・少弐景資は、赤坂から博多に進出してくる元軍を待ち受けるよう全軍に指示し、元軍が進出してきた後、元軍に集団で一斉に騎射攻撃を加える作戦を立てていた。このように、特別な場合を除いて一騎討ちは行われておらず、一騎討ちは武士の通常の戦闘方法ではない。 また、元朝の官吏・王惲は、元寇の際の武士の様子をその記事『汎海小録』において「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者甚々多し、刀は長くて極めて犀なるものを製り、洞物に銃し、過。但だ、弓は木を以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」と記しており、武士が騎兵を結束させて集団で戦っていたことを指摘している。 『元史』においても、日本の特性について「たとえ風に遇わず、彼の国の岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、我が軍に後援はない。万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、ただちに海を飛んで渡ることはできない」とあり、一騎討ち戦法ではなく、日本が大軍を擁しており、上陸した場合四方から元軍に攻撃を仕掛けてくることを元朝政府が警戒している様子が記されている。. 文庫編『金沢文庫古文書』は「金文」 、永井晋等編『金沢北条氏編年資なお、竹内理三編『鎌倉遺文』からの引用は「鎌遺」 、神奈川県立金沢の活動と照合することで、改元に関わる公武交渉を再検討してみたい。. 元寇 第一次日本侵攻までの経緯 ※暦はユリウス暦、月日は西暦部分を除き和暦、宣明暦の長暦による。モンゴル帝国の高麗侵攻 モンゴル帝国の版図の変遷 混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)縦1. 三六、細川興文書状(切紙) (年未詳)七月四日 三七、仙台藩家老連署知行目録(竪紙継) 延享元年(一七四四)六月日 三八、萩藩家老連署状(折紙) 明和二年(一七六五)七月六日 三九、毛利斉房黒印状(越前奉書紙) (寛政八年)(一七九六)五月. 59。 *11: 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 2mもあり世界最大の長弓であったことにある。長弓であることは矢を引く長さ(矢尺)を伸ばし弓矢の威力が増大することを意味し、現存している鎌倉時代の矢から80-90cm前後の矢尺を引いたと推測される。 第二の特徴は弓を握る位置にある。日本以外の弓では握りの位置が弓の中央であるのに対して、和弓は上から2/3の中央より下の方を握るようになっており、短下長上という構造になっていた。これは弥生時代には確認できる日本独特の弓の特徴であった。中央より下方を握ることで以下の利点があった。同一の弓でも弓力(弓が矢を放つ力)が増大すること。短下長上という構造上、矢の角度が仰角となり、結果、射程距離をより長くできた。さらに弓幹の振動がこの握りの近辺では少なく、操作しやすいことなどが挙げられる。 第三の特徴としては「弓返(ゆがえ)り」といわれるものがある。これは、矢が発射された直後に、弓を握る左手の中で、弓が反時計回りにほぼ1回転することをいう。これも日本独特のものであり、鎌倉期〜南北朝期の射術の進歩、弓の改良によって新しく起こった現象である。この「弓返り」により、弓の復元力(弓が矢を発射する前の本来の形状に戻ろうとする力)は速さを増し、矢はさらに加速され威力を増した。ただし、実戦では矢の連射性を重視したため、復元に手間が掛かる「弓返り」はさせなかった。 一方、蒙古弓は、長さが1.

『仁和寺史料』古文書編一(奈良文化財研究所、年)46号「越前国河和田荘文書目録(後欠、鎌倉後期写)」 越前国河和田庄文書目録事 一通 太政官符 〈保安二年四月廿六日〉 ※『鎌倉遺文』未収。影写本『仁和寺文書』に未収ならん。当該文書は現在. 第一一編 資 料 編. 正式には震天雷や鉄火砲(てっかほう)と呼ばれる手榴弾にあたる炸裂弾である。容器には鉄製と陶器製があり、容器の中に爆発力の強い火薬を詰めて使う。使用法は導火線に火を付けて使用する。形状は球型で直径16-20cm、総重量は4-10kg(約60%が容器の重量、残りが火薬)ある。 年(平成13年)、長崎県の鷹島海底から「てつはう」の実物が2つほど発見され、引き揚げられた。一つは半球状、もう一つは直径4cmの孔が空いた直径14cmの素焼物の容器で重さは約4kgあった。なお、この「てつはう」には鉄錆の痕跡もあったことから、鉄片を容器の中に入れ、爆発時に鉄片が周囲に撒き散り殺傷力を増したとも考えられる。歴史学者・帆船学者の山形欣哉によると、「てつはう」の使用方法や戦場でどれだけ効果があったかは不明な点が多いとしている。理由としては、「てつはう」は約4kgもあり、手投げする場合、腕力があるものでも2、30mしか飛ばすことができず、長弓を主力武器とする武士団との戦闘では近づくまでに不利となる点を挙げている。 「てつはう」をより遠くに飛ばす手段として、襄陽・樊城の戦いの攻城で用いられた回回砲(トレビュシェット)や投石機がある。しかし、山形欣哉は投石器を使用する場合、多くの人数を必要とし連続発射ができないなどの問題点もあったとしている。例えば、後の明王朝の時代ではあるが、「砲」と呼ばれる投石機は、一番軽い1. 閏7月7日、日本軍は鷹島への総攻撃を開始。 文永の役でも活躍した豊後の御家人・都甲惟親(とごう これちか)・都甲惟遠父子らの手勢は鷹島の東浜から上陸し、東浜で元軍と戦闘状態に入り奮戦した。上陸した日本軍と元軍とで鷹島の棟原(ふなばる)でも戦闘があり、肥前の御家人で黒尾社大宮司・藤原資門は戦傷を受けながらも、元兵を2人生け捕るなどした。また、鷹島陸上の戦闘では、西牟田永家や薩摩の御家人・島津長久、比志島時範らも奮戦し活躍した。 一方、海上でも残存する元軍の軍船と日本軍とで戦闘があり、肥前の御家人・福田兼重らが元軍の軍船を焼き払った。 これら福田兼重・都甲惟親父子ら日本軍による鷹島総攻撃により10余万の元軍は壊滅し、日本軍は20,000〜30,000人の元の兵士を捕虜とした。現在においても鷹島掃蕩戦の激しさを物語るものとして、鷹島には首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、刀の元、胴代、死浦、地獄谷、遠矢の原、前生死岩、後生死岩、供養の元、伊野利(祈り)の浜などの地名が代々伝わっている。 高麗国王・忠烈王に仕えた密直・郭預は、鷹島掃蕩戦後の情景を「悲しいかな、10万の江南人。孤島(鷹島)に拠って赤身で立ちつくす。今や(鷹島掃蕩戦で死んだ)怨恨の骸骨は山ほどに高く、夜を徹して天に向かって死んだ魂が泣く」と漢詩に詠んでいる。一方で郭預は、兵卒を見捨てた将校については「当時の将軍がもし生きて帰るなら、これを思えば、憂鬱が増すことを無くすことはできないだろう」とし、いにしえの楚の項羽が漢の劉邦に敗戦した際、帰還することを恥じて烏江で自害したことを例に「悲壮かな、万古の英雄(項羽)は鳥江にて、また東方に帰還することを恥じて功業を捨つ」と詠み、項羽と比較して逃げ帰った将校らを非難している。 『元史』によると、「10万の衆(鷹島に置き去りにされた兵士)、還ることの得る者、三人のみ」とあり、後に元に帰還できた者は、捕虜となっていた旧南宋人の兵卒・于閶と莫青、呉万五の3人のみであった. モンゴル型馬具(鐙) 高さ14. 5cm、重さ2kg 元寇史料館所蔵 5.

-- 御茶の水書房, 1957. 52 篠田郷: 蒲生郡: 建長8. 5cm、重さ2kg 元寇史料館所蔵 3. 鎌倉遺文2270 長命寺文書 八幡町史p.

古文書入門 / 高橋 d24396 一編. 金方慶「皇帝の命令を奉じて、3か月の兵糧を用意した。今、後1か月の兵糧が尚ある。江南軍が来るのを待って、両軍合わせて攻めれば、必ず日本軍を滅ぼすことができるだろう」 ヒンドゥ(忻都)、洪茶丘は敢えて反論せず、江南軍を待ってから反撃に出るという金方慶の主張が通った。. -- 酒井書店, 1966. 鎌倉時代の日本の鐙 東京国立博物館所蔵 2. 西新の元寇防塁 福岡市早良区西新 4. 鎌倉遺文(古文書編 第31巻) - 竹内理三 - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まっ. 史跡元寇防塁に指定された7地区 2.

杉橋隆夫「鎌倉執権政治の成立過程―十三人合議制と北条時政の「執権」職就任―」御家人制研究会編『御家人制の研究』、1981、吉川弘文館、のち瀬野精一郎・村井章介編『日本古文書学論集5中世1 鎌倉時代の政治関係文書』所収、1986、吉川弘文館. 今津の元寇防塁 福岡市西区今津 3. 東京堂出版 史料・古文書学の通販ならヨドバシカメラの公式サイト「ヨドバシ.

マルコ・ポーロの『東方見聞録』には以下のようにマルコ・ポーロが伝聞として聞いた弘安の役に関する記述がある。 「. 南浦 紹明(なんぽ しょうみょう、嘉禎元年(1235年) - 延慶元年12月29日(1309年2月9日))は、鎌倉時代の臨済宗の僧。出自については不詳であるが、駿河国安倍郡の出身。諱は紹明(「しょうみょう」とも「じょうみん」ともよむ)、道号は南浦。. 25: 1214 自延慶元年至延慶四年(131 〔入道蓮慶処分状〕【飽波】処分渡 所領田畠事/合伍段者/処二段 在大和国平群郡飽波東郷九條五里十三坪之内‖処壱段 同郡飽波西郷七條六里丗一坪之内〈自東四段目〉 鎌倉遺文4p. 鎌倉時代の古文書を網羅し、編年式に集大成した中世史研究の根本史料。本巻は承久3年から嘉禄2年までの文書を収めた。 ※この商品は紙の書籍のページを画像にした電子書籍です。文字だけを拡大することはできませんので、予めご了承ください。試し読みファイルにより、ご購入前にお. 118 東大寺文書 飽波西郷☆: 平群郡: 健保2. 1/8//ishimoda 律令制古代法 / 奥野彦六著. ところが壱岐島の東路軍は連戦の戦況不利に加えて、江南軍が壱岐島で合流する期限である6月15日を過ぎても現れず、さらに東路軍内で疫病が蔓延して3,000余人もの死者を出すなどして進退極まった。 高麗国王・忠烈王に仕えた密直・郭預は、この時の東路軍の様子を「暑さと不潔な空気が人々を燻(いぶ)し、海上を満たした(元兵の)屍は怨恨の塊と化す」と漢詩に詠んでいる。 この時の高麗軍司令官の征日本軍万戸・金周鼎の墓碑『金周鼎墓誌銘』によると、東路軍内では、互いに助け合うこともできないほど疲弊していたが、その中で金周鼎は病人を率先して保護したという。また、『金方慶墓誌銘』によれば、疫病が蔓延し、東路軍はこれ以上の日本軍との連戦を続行するのは難しい状況であったという。東路軍の中では、撤退すべきとの声も上がった。 このような状況に至り、戦況の不利を悟った東路軍司令官である東征都元帥・ヒンドゥ(忻都)、洪茶丘らは撤退の是非について征日本都元帥・金方慶と以下のように何度か議論した。 1.

鎌倉時代の古文書を網羅し、編年式に集大成した中世史研究の根本史料。本巻は元亨3年から正中2年までの文書を収めた。 ※この商品は紙の書籍のページを画像にした電子書籍です。文字だけを拡大することはできませんので、予めご了承ください。試し読みファイルにより、ご購入前にお.

鎌倉遺文 自延慶元年至延慶四年(131 古文書編 - 竹内理三

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